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4. 中学生時代 その1

 中学校に入ると、部活動を選びます。私は運動音痴のくせに、なんとサッカー部への入部を考えていました。ところが、小学校の時からの友人で、ちょっと、いやかなーり怖い感じの女子が、「大井くんにできるわけないでしょ!!運動の得意な○○君だって無理かもよ!!大井くんは絶対吹奏楽部にしな!!!」と凄むので、私はあっという間に気弱になってしまい、彼女の言われるままに何となくふらふらっと音楽室に入っていきました。すると、なんとまあ、そこではお姉さま方が私に大層優しくしてくださるではありませんか! それに、見たことのない楽器がきらきらと並んでいます。当時、楽器の名前など全く分かりませんでしたが、音楽室の入り口のほうにあった、鈍く光る大きなお釜のような楽器が太鼓の仲間だろうということはすぐに察しがつきました。小学校の運動会の時に鼓笛隊で受け持った小太鼓が面白かったこともあり、その楽器をどうしても叩いてみたくなって、打楽器希望での吹奏楽部への入部を決めました。その楽器がティンパニという名前であることはすぐに知りました。

 私は熱心な部員だったと思います。朝練にもしっかり出て、練習台をテケテケやっていましたし、楽器の準備とかも率先してやっていました。ティンパニは、偉い上級生が担当するものであってまだ私などには叩かせてもらえず、1年生の時の吹奏楽コンクールにはシンバルで参加。楽器を構える拍・下ろす拍まで決めていたのを覚えています。その時のヴィデオが残っていて、見ると叩く前後の動きが非常に派手かつねちっこくて恥ずかしいのですが、講評用紙には「シンバル、ブラボー!」と書いていただきとても嬉しかったのは今でも忘れられません。いつしか部活外でも「シンバル大井」などと呼ばれるようになっていました。

 秋に副部長となった私は、おそらくは自ら希望して、朝練の合奏基礎練習 (果たして効果があったのかは怪しいシステムではありました) の指揮などを時折させてもらうようになりました。この時顧問の先生に「スタッカートの時は指揮もスタッカートで、テヌートの時はテヌートで」と教えていただいたのが、私にとって最初の指揮のレッスンとなりました。しばらくすると、先生が不在の時に代わりに曲の合奏も時折振らせていただけるようになり、そうなると私はやみつきになって、部室中のスコアを読み、雑誌を読み、音源を聴きました。

 あっという間に部室を制覇してしまった私は、さらなる世界を求めて栃木県立図書館に行きました。ここで私はおそらく本格的なオーケストラのスコアを読んだのだと思います。それまでは吹奏楽のスコアしか読んでいなかったのです。

 またこの図書館には音源が山のようにあります。確か一回20枚まで借りることの出来たLPレコードをいつもリミットぎりぎりの量まで借りこんで、部活の朝練の間に部室でカセットテープにダビングして (時効!) 、マイ・ライブラリーを肥やしていきました。当時良く聴いていたのは、1970年代の全日本吹奏楽コンクールのライヴ録音と、何故か武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」「グリーン」などの現代ものでした。少なくともモーツァルトの交響曲などはほとんど聴いていなかったように思います。

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