Diary


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今日聴いたコンサート@ルドルフィヌム ドヴォルザーク・ホール

「プラハの冬」音楽祭
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団演奏会

指揮:ズデニェク・マーツァル
チェロ:ダニエル・ミュラー=ショット

 ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調 作品104
 アンコール/ラヴェル:ハバネラ形式の小品 (無伴奏)
 スーク:交響詩「夏のおとぎ話」 作品29


 私的には久しぶりのマーツァル氏の指揮にしておそらくこのコンビで聴く最後の演奏会。

 ドヴォルザークのチェロ協奏曲は非常に難しい作品です。アメリカ時代、ナイアガラの滝を見たドヴォルザークが、「よし、これで交響曲を作る」と言って書き始めたのがこの曲だと言われています (このソースを探したのですが、こちらに持ってきてあるわずかな手許の資料の中からは発見できませんでした。また何かの折に) 。その真偽のほどはともかく、この作品はブラームスのピアノ協奏曲第2番同様 (あるいはさらに、か) 、シンフォニックな趣があり、ドヴォルザークもおそらくはチェロ独奏が映えるようにというよりは、チェロ独奏を含んだ全体による交響楽的なものとして音楽を構築しようとした (あるいはそのようにこの作品を捉えていた) ことはかなり明らかなものであると思われます。

 ちょっとしつこい書き方になってしまいました。つまりこの協奏曲は、超有名チェロ協奏曲でありながら、元来それほどチェロ独奏が引き立つような曲ではないと思うのです。ウィハンはドヴォルザークに対し、第3楽章にカデンツァを入れるよう提案しますが、現在では愚案と片付けられてしまうこのアイデアも、実のところウィハンはそこらへんのところを非常に良く理解していた故だと思うのです。私は「協奏曲」としては、この曲よりもむしろヴァイオリン協奏曲の方が良く出来ていると思っているくらいです。

 多くのソロ部分の「テンポ」も、その前のオーケストラが作っている音楽から導かれていくことが少なくありません。多くのチェリストはそこで「私がソリストの協奏曲」であるとばかりに、例えばオーケストラの運んできたテンポと全然違うテンポで弾いたり、チェロ独奏が伴奏音型でオーケストラに旋律がある時に無理にテンポを自分の方に引き寄せようとしたりしてしまいます。このことがこの協奏曲を、必要以上に指揮者とオーケストラにとってやりづらいものにしています。実際、私はこの曲のピッタリ合った生演奏というのを、まだ一度も聴いたことがありません (やり直しがきくレコーディングは、また別の話です) 。そしてそのようなソリストのもとでは、この音楽作品は構築性を失い、単なるムード音楽に堕していくのです・・・

 すいません。随分今日の演奏内容からは離れてしまいました。今日のミュラー氏はどちらかと言うと、かなりマーツァル氏とオーケストラの音楽に寄り添ったものでありました。

 休憩時間にしっかりコーヒーを飲んだにも関わらず、後半のスークは時差ボケからくる睡魔との戦いになりました。スークのこの作品は今から100年前の1909年1月26日に、カレル・コヴァジョヴィツ指揮のチェコ・フィルによりここルドルフィヌムで初演されたということで、今日はその初演100周年記念の演奏ということでした。日本ではこの作品は「夏物語」と訳されることもありますが、おそらくこれは英語での定訳 <A Summer’s Tale> から来ているもので、チェコ語では <Pohádka léta> 、<pohádka> は「童話、おとぎ話」という意味で「物語」という言葉に対しては <vyprávění> <příběh> という別の単語がありますからやはり本来は「夏のおとぎ話」と訳されるべきでしょう。

 完全ドヴォルザーク風の「弦楽セレナーデ」 (1892年) は別としても、1900年、作品16の「おとぎ話」以降、「幻想的スケルツォ」「プラーガ」「アスラエル交響曲」を超えてこの「夏のおとぎ話」に至るまで、スークが10年足らずで一作ごとに獲得していく音楽表現と色彩のパレットの多さには目を見張るものがあります。特にこの作品ではドビュッシーの影響が多いように思いましたが、どうなのでしょうか。いつかスコアをじっくり研究してみたいものです。

 今日は一日中雪が降っていました。演奏会が終わると外はマイナス6度、寒いやら眠いやら、部屋に戻ると、今日も夕食を食べる気力もなくベッドに倒れ込んでしまいました。いけませんね。


BGM:ドヴォルザーク:チェロ協奏曲
     ワルター・ノータス (Vc.) 、尾高忠明指揮東京フィルハーモニー交響楽団
                              (1975年録音、Camerata)

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