今日も朝からリハーサルを見学させていただきました。
明日はジルヴェスター・コンサートから戻ってくる頃には日本では2008年になっているので、今日のうちに今年のまとめをしてみたいと思います。
今年は劇的に自分の周りの環境を変えた年で、今までに体験しなかったことを多く経験した年でした。今年の元旦には、今日こうしてこのプラハのこの部屋でこの日記を書いていることなんて、これっぽっちも見えていませんでした。
今年は例年にも増して、多くの人々の愛情に触れました。それも、自分でもびっくりするほど多くの人々の。
自分がチェコ・フィルのリハーサルを見学させていただけるように、特に何人かの方々が本当に親身になって助けの手を差し伸べてくださいました。お願い下手な自分が、独り何も出来ず、身動きがとれないでいたところに、それらの方々は、自分たちには全く何の利益にもならないにもかかわらず、救いのロープを垂らしてくださったのです。私はそのロープにただ掴まったにすぎません。いくら感謝しても感謝しすぎることはないと感じています。
勤めていた2つの大学も理解を示してくださり、温かい雰囲気で送り出してくださいました。
音楽鑑賞教室を中心に、年間を通じてお世話になっている2つオーケストラ、群馬交響楽団と山形交響楽団も、快く送り出してくださいました。群馬交響楽団は、プラハへの演奏旅行を経験しているオーケストラであり、プラハで勉強された楽員、さらにチェコ人の楽員がいらっしゃり、色々なアドヴァイスをいただきました。ステージ・マネージャーの方は最後の本番の時、私のどでかくて重いスーツケースを高崎駅の改札まで運んでくださいました。山形交響楽団の何人かの楽員の方々が、最後の本番のあと袖で拍手で送り出してくださったことも忘れられません。私はこれらの職場ではほとんど雑談などはしない質で、プラハ行きのことも自分からはほとんど事務局の方にしかお話をしていなかったので、これらの全てが驚きを含んだ感激でした。
長くお付き合いのあったアマチュア・オーケストラの方々との区切りの演奏会はどれも思い出深いものとなりました。長崎交響楽団との今年の演奏会は日本著作権協会のサポートによる演奏会で、本来は指揮者は著作権協会側に提案していただくところを、特に今回はオーケストラが私を推してくれたとも伺っています。ホールの席数をはるかに上回るチケットのご応募をいただいた結果の満席の客席、渡辺玲子さんという素晴らしいソリストとの共演は、長崎交響楽団から私への贈り物であると感じていると私が打ち上げで話した時、何人かの団員の方々が「私たちの気持ちは通じたね」と話していたのだという話をあとで伺い、心が熱くなりました。
仙台市民交響楽団とのお付き合いも長くなってきました。特にここ3年間は、6回の定期演奏会のうちの実に5回をご一緒させていただいたので、かなり密な関係でした。プロのエキストラの方に「厳しすぎる」と言われてしまうほどのリハーサルを積んだベートーヴェンの7番、テキストの内容と今そこにある音楽との関係を識ることから始めた「4つの最後の歌」。そういえば雑誌「サラサーテ」の取材も私たちの良い記録になりました。打ち上げでコメントを話したあと、皆さん全員が立ち上がってかなり長い時間拍手をしてくださった時はさすがに涙が止まりませんでした。
くにたち室内管弦楽団と私との関係は、個人レベルでは人によっては10年以上にも及び、団員の年齢層も20代中頃から大体私くらいの年齢までの間に集中していることから、より距離感の近い雰囲気の中で練習から本番までを過ごすことが出来ました。私がひそかに気に入っているのは、本番当日のレジュメの楽屋割りのところで、ソリストの花崎薫さんは「花崎先生」、私は「大井さん」とはっきり書き分けられていたことです! アマチュア・オーケストラとの演奏会の中ではこの演奏会が今年最後のものとなりました。個人的には引っ越しや諸手続きのために鬱々とした日々を過ごしながら、オーケストラとしては真夏に冷房の効かない部屋で汗だくになって頑張った練習〜しかも長時間の〜を乗り越えての本番は、全員が出来得る限りを尽くせた、少なくとも出演者的にはこれ以上は無理だというほど充実したものだったと思っています。あまりに関係が近過ぎて、感謝していますなんて、ちょっと言いづらいほどですが、打ち上げでいただいた、浴衣も下駄も色紙も、全てプラハに持ってきています。素敵な時間をくれて本当にありがとう。
残念なことですが、これらの温かいお気持ちをたくさんいただく一方、今年はこれまでになく人間の冷たさというものを多く体験した年でもありました。直接的な拒絶、遠回しな拒絶、無視、無関心、不誠実・・・といったものの前に屈しなければいけなかったり、自分を通さなければいけなかったりすることは、たとえそれがちょっとしたことであっても、自分にとってはかなりのストレスになるものでした。これらの冷たい人間の間をするすると生き抜いていくことを覚えることは、自分にとっては不必要な何かを身につけてしまうことのように思えてしまってなりません。
プラハに来てから、急速な勢いで色々と聴き、色々と読み、色々と見て、そして色々と思考しています。自分が日本人であるということを愛していること、そしてやはり自分は日本に住み、日本で仕事をしていきたいと思っていることについては、最早揺るぎようのない感情となっているように思います。腰を据えて何かを長く続けることに興味があります。それはある土地に住み続けることであるだろうし、仕事に関して言えば、あちこちで一回限りの仕事をするよりは、特定のいくつかの職場に自分の仕事の軸を持ち、それを深めていくことでもあります。
思いもよらなかったタイミングで、親類や家族などの状況にも大きな変化が訪れた年でもありました。そのようなこととも少なからず関係して、一体いつから日本での仕事を本格的に再始動させようかということについては、非常に自分の中でも揺れ動くものがあります。しかし、少なくとも今はまだ決断の時ではないように思います。
すっかり忘れてましたが、頸椎や腰のことなど、身体上の不安に悩まされ始めた年でもありました。
長々と失礼しました。皆さんよいお年をお迎えください。来年もよろしくお願いいたします。