私は1974年4月30日に、東京都の駒込病院というところで生まれました。生まれた時は未熟児だったようで、さらに生まれて一週間くらい経った頃、口が開かなくなったことによって呼吸に問題が生じ、死にそうになったということです。なーんだ、死んじゃえば良かったのにと思った方、これからまだもう少し生きていきたいのでしばらくのご辛抱をお願い致します。親が誰かから「葬式の準備をしたほうがいい」と言われ、親もそのように考え始めたら、私はみるみるうちに回復したということです。
3歳まで北区内の「誠コーポ」というところに住んでいました。今はあるかどうか分かりませんが21世紀のごくごく初頭に見に行った時にはまだこのアパートは健在でした。かつて大学の後輩がこの「誠コーポ」のすぐ近くに住んでいたので、「ほら、オレは赤ん坊の頃ここに住んでいたんだ!」と、わざわざ連れて行きました。後輩は全く嬉しくなかったと思います。先輩としてすべきことではなかったと、深く反省しております。
そして父親の転勤のため栃木県の宇都宮市に引っ越します。この地で入園した幼稚園での体育の時間、というかお遊戯の時間が私はとても嫌でした。あまりに嫌でみんなが外で遊んでいるのに一人で教室の中にいたこともあったようです。この時間に、幼稚園の先生が教室でピアノの練習をしていました。このことが私の人生を決めました。私は強烈に音楽に興味を持ったのです。
しかし家にはピアノはありません。今考えれば幼稚園の教室で弾けたではないかと思うのですが、とにかく、まずは親戚からいらなくなったおもちゃのピアノをもらいました。こたつの上に乗っちゃうような小さいやつです。私はこれで、幼稚園の先生の真似をしてみました。今でもはっきりと覚えていますが、初めて弾いた曲は「メリーさんのひつじ」で、いきなり両手で、ヘ長調で弾きました。子供心ながらにこのことは記念にしっかり覚えておこうと思ったので、今こうしてこのことを書けるわけです。今の私としては、どこかの時点で私の記憶が塗り替えられていないことを祈るばかりです。
母親の証言によれば、私はこの頃、近所でピアノのある家を見つけては「おおいといいますけど、ピアノひかせてください!」と言って、他人の家に上がり込んじゃあピアノをじゃんじゃかと弾いていたそうです。そんなことを幼稚園児がするのかどうか疑わしいのですが、同時期、イトーヨーカドーで母親とはぐれた私が、館内放送で「美男子タケシちゃんがお待ちです」という放送を流させたり、別の時にはやはりイトーヨーカドーで母親とはぐれたのち、独りでタクシーに乗って帰宅したりといった奇行を重ねていたことから考えると、あながち嘘とも思われません。
結局、小学生になる時にピアノを買ってもらうことになりました。これも母親の証言では「幼稚園の先生が、この子にピアノを買ってあげるようにと、お願いに家まで来た」ということですが、これはいくらなんでも美し過ぎると思われます。それとも私が幼稚園の先生を言い含めたのでしょうか (やりかねないのが怖いところです) 。かくして、家にアップライトのピアノがやってきて、レッスンにも通い始めました。その時の条件は確か、「絶対にやめないこと」だったと思いますが、皮肉なことに私は芸大に入るとピアノの練習というものを全くしなくなってしまいました。お父さん、お母さん、約束を守らなくてごめんなさい。