それから大きな影響を受けたのは、当時NHK教育の「芸術劇場」で時折放映されていた、バーンスタインのマーラー・シリーズでした。ウィーン・フィルとの5番、ロンドン響との2番 (「復活」) など、ヴィデオに録って何度見たかわかりません。それからイスラエル・フィルとの「大地の歌」の、特にリハーサル・シーン。あのバーンスタインの格好良さが、私が指揮者になりたい気持ちを後押ししなかったと言えば、それは大きな嘘になります。当時は本当に影響が大きく、部活でもレニーさながらにオーバー・アクションで振って、笑って吹けない他の部員たちのことも気にもせず悦に入っていました。また、「復活」のヴィデオをホルンの部員たちに見せて、ロンドン響がやっているのと同じような、ベルを天井に向けるような極端なベル・アップ (あれは、イーリー大聖堂だから意味があるのだと思います) を強要したりもしてました (私の場合、本番の会場は体育館だったはず。つまり思いっきり逆効果です!) ・・・今思うとほんと恥ずかしくて申し訳ないことばかり!
ともかく、中学2年生頃には指揮者になりたいということを決心していました。今でもそうですが自分で決めたことは誰が何と言おうと譲らない性格で、周囲の反対はあったのかもしれませんが良く憶えていません。
しかし、指揮者というものは、小さい頃から英才教育を受けているような一握りのエリートが目指すことを許されるもので、私などは既に手遅れの状態であるということはしっかりと諭されたような記憶はあります。とはいえ諦められず、かと言って栃木の片田舎では出来ることも実に少なく、まずはとにかく管楽器をやったほうが良いだろうということで (どうして弦楽器をやるべきだと誰も言わなかったのかは謎ですが、ヴァイオリンなど夢のまた夢といった環境であったのは確かです) 、フルートを習い始めることになりました。正直に告白すれば、オーボエがやりたかったのですが、楽器が高価なのと、図工の成績が通知表で大概「2」だった私としては、リードをこしなえるなんざ全く不可能と思われたので諦めました。とはいえ、いつの日か「エルザの大聖堂への行列」のソロを吹くのが夢ではあります。
フルートは、高校2年生くらいまで習いました。先生は、地元の有力な高校の吹奏楽部の指導者でもありました。私がこの先生に最も感謝しているのは、どこの高校に私が進学するべきか悩んでいた時に、自分が教えている高校に来て吹奏楽部に入ることを勧めるのではなく、全く吹奏楽部活動は盛んではないが、それゆえに自由に音楽大学の受験に必要な個人的な勉強の時間がとれると思われる別の高校を薦めてくださったことです。これは大正解だったと思っています。
私が初めて公開の場で指揮をしたのは、中学3年生の秋。学校の文化系イベントの一環で、わが吹奏楽部がその史上初めて一晩の演奏会を持ったのです。その演奏会で何曲か振らせていただいたのですが、特にメインの「アルメニアン・ダンス・パートI」を振らせていただけたことは一生忘れられません。当時のアイドル、バーンスタインの真似をして超派手かつエキセントリックに振りまくり、本番後はネジが切れたように呆然自失状態、次の日になっても学校のバーベキュー大会に自分が持って行くべき食材だったか道具だったかを全て忘れて大顰蹙だったほどでした。ちなみに、もともと私の持ち分であったティンパニを私の代わりに叩かれたのは顧問の先生。コントラバスを弾かれる先生だったのですがね・・・ 先生、心底感謝しています!!!