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6. 高校生時代

 高校生になると、大学は音大に行きたいという気持ちはますます確実なものとはなりましたが、実は当初、地元では指揮の先生を紹介していただくことが難しく、「岩城宏之さんもそうだったんだから」という理由で、「まずは打楽器科で入りなさい」ということで、東京の打楽器の先生をご紹介いただき、レッスンに通い始めていました。しかし、「どうして指揮者になりたいのに、打楽器科に行かなくてはいけないのか」と思ってしまっていた自分は、中学生の時にはあんなに精を出していた練習をすっかり怠るようになり、レッスンにもろくにさらわないで出かける始末。

 高校1年生も終わりに近づいたある日、本当にこれでは怒られる、というくらいさらわないでレッスンに向かったことがありました。やばいなー、やばいなーと道中びくびくしながら、何か言い訳できることはないか、少なくとも時間かせぎできることはないかななどと悪知恵を働かせた私は、先生のお宅に着くと、「先生、今日は相談があるんです」と言って、いきなり「実は僕、指揮者になりたいんです」と切り出したのです。

 そこから先が予想外でした。先生は怒るでも心配するでもなく、実にあっけらかんと明るく「あなたはそっちの方がいいと思ってたわー。大体今のレベルじゃ打楽器では芸大なんてとても無理だし、○○音大も△△学園もぜんぜん駄目。絶対指揮の方がいいわよー」と仰ったのです。自分がそこまで下手だったのか・・・ということは心なしかショックでしたが、その日のうちに先生は、芸大に行くのだったら松尾葉子先生を紹介してくださると約束してくださり、ただし、松尾先生をはじめとした何人かの指揮者を見てから本当に松尾先生に弟子入りしたいのかを考え、さらに松尾先生の連絡先は自分で探し当てることを条件とされました。私はこの日を最後に、打楽器のレッスンには通わなくなりました。

 折しも数ヶ月後には松尾先生の颯爽とした指揮ぶりをテレビ「読響オーケストラハウス」で見る機会に恵まれました。また、打楽器の先生の言いつけ通り、他の指揮者の指揮ぶりを見るために東京での演奏会にしばしば足を運びながら、指揮科の受験に必要な勉強のためのレッスンにも通い始めました。そして「演奏年鑑」から先生の連絡先を探し出した私は、改めて打楽器の先生にお願いして、松尾先生をご紹介していただきました。

 先生に初めてお会いしたのは高校2年生の初夏の時のことでした。しばらく山田一雄先生の「指揮の技法」を教科書にレッスンを受けていたのですが、忘れられないのはその教科書を初めてレッスンに持って行った時、先生に「知ってる?山田先生お亡くなりになられたのよ」と言われたことでした。ちなみに山田先生の追悼番組では船山隆先生が「生前先生は、自分の生涯最大の失敗は、指揮法の教科書を書いたことだと仰っていました」と語っておられて、テレビの前でそりゃないよー!とひっくり返ったことを覚えています。

 高校3年生も近くなると、受験に必要な全てのレッスンを東京で受けるようになり、日曜日だけではなく、平日でさえ東京に通うようになりました。かなり忙しかったけれども、そのぶん学業を疎かにしたので、バランスがとれていました!?

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