Diary


10/31

 朝は6時起き。22時就寝6時起床の8時間睡眠なんて、まるで模範的な中学1年生にでもなった気分です。


 午前中はリハーサルを見学に。トマーシュ・ネトピルさんの指揮でシベリウスの交響曲第2番、ノヴァークの管弦楽伴奏による歌曲集「新しい王国の谷」。

 午後は部屋のピアノを調律してもらいました。調律師さんが強いタッチで音を鳴らしているということもあるけれど、それにしてもピアノの音が部屋にめちゃめちゃ響いてます。これ弾いたらやばいんじゃないかな・・・

 夜は演奏会に行きました。


 今日聴いたコンサート@ルドルフィヌム ドヴォルザーク・ホール

 プラハ・コンセルヴァトワール交響楽団演奏会

 指揮:ミリアム・ニェムツォヴァー
 チェロ:ヤクブ・マイヤー

  フルニーク:シンフォニエッタ
  マルティヌー:チェロ協奏曲第1番
  ドヴォルザーク:交響曲第8番 ト長調 作品88


 おおよそ10代の人たちのオーケストラで、ソリストもたぶん学生なのだと思います。こうした教育のための演奏会でオールチェコ物プログラムを演奏させるといったところに、このようにして伝統はつながれていくのかと感じました。

 フルニーク氏のシンフォニエッタは4楽章構成で、第3楽章が終わると管楽器のプレーヤーが何人も退場したので何だろうと思ったら、第4楽章はバンダの奏するスロー・ワルツ (平易な音楽) と舞台上のオーケストラ (現代的な音楽) の掛け合いになっていたのでした。その趣向はアイヴズの「宵闇のセントラル・パーク」のようであり、ベルクの歌劇「ルル」の第3幕第2場冒頭のようでありました。作曲者は今日も元気に会場にお見えになっていました。

 マルティヌーも初めて聴く曲でした。好き好んでマルティヌーを聴くようになるにはまだ時間はかかりそうです。部分部分はとても面白いのですが、鑑賞に持続した集中度がまだ保てません。ソリストはオーケストラのプレーヤーよりも軽装で出てきたところが若者っぽいですが、演奏技巧は大変に高いものがありました。応援部隊がものすごくて会場は大盛り上がり。

 後半のドヴォルザークはアンサンブルに関していえばのけぞるくらいにラフでしたが、プレーヤー個々の表現においては荒削りながらなかなか面白く聴けましたし、何より楽しそうな表情が印象的で、色々と思うところがありました。

 彼らの演奏からまず連想したのが、この地の若い人たちのマナーの悪さです。演奏会で近くの席に若い人たちの集団がいた時には、まず静かに音楽を聴くことはあきらめなくてはいけません。注意したところで、逆にこそこそと馬鹿にされるのがおちです (実際にそうした光景を見たことがあります) 。しかし注意する人などは稀で、ほとんどの場合大人は放っておいたままです。

 先日パリの空港で、3歳くらいの子供が列を作るための柵のベルトをふざけて解いてしまいました。その時びっくりしたのは母親は注意一つしないどころか、ベルトを元に戻すことすらしなかったことです。似たような例を目にしたことは、今までに何度もあったような気がします。

 これらのようなことに対して私は決して快くなどは思いません。しかしながらこちらの子供〜若者は非常に生き生きとしているように見え、その理由の一端にこれら大人たちの不干渉 (という言葉が合っているかどうかは分かりませんが) があるように思われるのです。

 彼ら子供たちや若い人たちは、悪いことをしているという自覚はありません。ただ、自分のやりたいことをやる時に、他人のことなど気にしてはいないのです。その点が今日演奏した学生たちと共通しているように思いました。今日の演奏は、自分のパートを楽しくやりたいように演奏して、その結果周りと縦が合わない、そんなことの連続のように思いました。

 もちろん大人のオーケストラは違うわけですが、かと言って自分を殺しているような音は出していません。そうして考えると、あのような若い人たちが、自分の持っているものはそのままに、他者との共存もできるようになる、ということが大人になるということなのかとも思います。

 日本では、音楽のアンサンブルの教育現場はまず縦を合わせることから始めるのが一般的で、それも大変に厳しいものです。音楽教育に限らず、例えば小学校での教育方法にしても、個の表出の前にまずは規律を身につけさせるというのが普通なのではないでしょうか。

 今日のオーケストラの指揮者や指導者の方々が、縦を合わせることを全く教えていなかったなどと言うつもりは全くありません。むしろ熱心にそのことをリハーサルしたのかもしれません。しかしその上で、彼ら指導者は (そしてそれはこちらの大人たちは、と言い換えても良いわけですが) 、それよりも個の確立と表出というものを大切にしているのではと思われます。それはもしかしたら彼らは無自覚なのかもしれませんが、どうもヨーロッパ人のDNAに深く組み込まれているように私には思われるのです。

 そう考えると、日本人がヨーロッパの人のように演奏するようになるには、日本の学校教育や親の子への教育といったレベルから変えなくてはいけない、といった結論に至るのも、決して極端な考えではないように思われます。

 個人的には、別にそうすることが良いなんて、思いませんが。日本の教育方法 (一般的なものも、音楽教育も両方) だって、良い点がたくさんあるのですから。少なくとも、静かなるコンサート・リスニングをしょっちゅう若い人たちに邪魔されている身としては、そう思います。

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