今日観た公演@プラハ国民歌劇場
プッチーニ:歌劇「マノン・レスコー」
指揮:イルジー・シュトルンツ
演出:ヨゼフ・ベドナーリク
マノン・レスコー:スルモナ・プロハースコヴァー
レスコー:ミグェランジェロ・カヴァルカンティ
デ・グリュー:イゴル・ヤン
ジェロンテ:ボフスラヴ・マルシーク
エドモンド:マルティン・シュレイマ
旅籠屋の主人:ミラン・ビュルガー
舞踏教師:ルボミール・ハヴラーク
音楽家:スィルバ・チュムグロヴァー
点灯夫:オンドジェイ・ソハ
軍曹:ミラン・ビュルガー
海軍司令官:ミロシュ・ホラーク
今までに何回か見た国立歌劇場の公演の中では、演技がルーティンだったり形式的だったりにならずに、最も生き生きとしていたと思いました。ただし音楽面ではオーケストラ、特にファースト・ヴァイオリンが第2幕の終わりの数分で何回か楽譜の原形が分からなくなってしまうほど崩壊していたのが非常に残念でした。
プッチーニの「マノン・レスコー」は、私の大好きな音楽がいっぱいに詰まった作品なのですが、一方個人的には感情が移入できる役が一つもなく、どうも観ていても視点が定まらなければ共感もできないという、自分にとって実に微妙な立ち位置を持つオペラです。
演出は時代設定を1950年頃に移していましたが、その必然性についてはあまりよく理解出来ませんでした。1950年というのは微妙に現代でもありませんので、現代においてもこのストーリーがリアリティを持つ、という演出家からのメッセージではないはずです (もし演出家が年配の方でしたら認識に錯誤があるかもしれませんけれど) 。第4幕はアメリカの砂漠で2人が全てを失い、飢えて死んでいくのがオリジナルですが、今日の演出では郊外 (?) の車道沿いという設定でした。マノンは最後までネックレスなど若干の宝飾品を持っていましたが、それを見て私は「おいおいそれ売れば何とかなるだろー。それに車が通ればヒッチハイクも出来るんじゃないのか?」と疑問を持ってしまいました。今夜はこの他にもいくつか???なことがありました。演出家の方に詳しいお話を伺えばその意図を理解して納得できるのかもしれませんが、基本的にはアーティストの行為というのは説明なしで成立しなければいけないものだろうとも思います。ただ、私の鑑賞能力が低いだけ、という可能性もありますので判断は留保します。
公演を観ている間くらいから腰にはじまり背中に移った痛みが悪化。寝る頃にはかなり辛くて、久しぶりに筋肉の緊張を緩める薬を飲んでから寝ました。